Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワンネス体験のパラドックスと誤解04

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おはようございます。タクさんでございます。
きいぃぃいぃいい!

ということで、叫びますよ!

いやね。最近いっそがしいんですよ。

ふぇー。眠い。
コメントにもあまり返事が出来ておりませんで、すいません!
ありがたく読ませていただいております。

さて、叫んでスッキリしたところで、

体験に翻弄されるどんくさい男の話。昨日の続きを書いていきますね。

さて、昨日は質の違う体験があったりしたんです〜。
ってとこまでだったんですけど、

この質の違う体験はその時までも何度かあったんですけどね。
一番最初の体験もそんな感じでしたし、
ただ、やっぱり興味はより「それ?」の奥深くに在りたい!
といったような探求の方に興味があったので、なんていうか無視してたといいますかね。

どういった体験かといいますと、私がなくなる。といいますか、
たんに起こることが起こってるだけで、淡々とことは起こりますし、
あらゆることにレッテルが貼られて認識されていくんですけど、

なんていうか、めっちゃそれが客観的な感じなんです。

今までそういうのにガッツリフォーカスしてた感覚が抜けて、
私がいない。
って感じなんですよね。

でも、普通に生活してるんですよ。テレビ見て笑いますし、酒飲みますし。

でも、私はいないんです。
いなくなるんじゃなくて、最初っからこれっておらんかったんちゃうのん?
っていう気づきです。

昨日まで書いてきたワンネスの体験でも、私は身体じゃない。全てがある。
って感じで凄く似てるんですけど、

決定的に違うのは、

ワンネスの体験は、来ては去っていくのに対して、
この私がいない体験は、在るはずっとあって、そこであらゆることが起こってるって感じだったんですね。

今までも私はいない体験はあったんですけど、
やっぱりもとに戻って、探求ジャー!ってなってたんですけどね。
その探求がダメっていうか、それも許されていくと、探求が弱まるというかね。
ちょっとした特別な体験をした自分になるという希望に対する諦めが出来てくる感じですかね。

ありゃー。
高次元の存在?インスピレーションのようなものとか、人は死なず、意識は身体を離れてもちゃんとある!みたいな体験とかも、ある意味では本当の体験だとしても、それも物語やん。
目の前の現実と同じですやん!

結局いわゆる現実、社会のルールとかそういった類のものと、スピリチュアルの世界も、体験としては同じで、体験を通して知る悟りの話も体験からきた解釈でしかなく、同じ物語ですやん!

あらゆることは起こっては、単に過ぎ去るわけだけど、このどれにフォーカスされてるのか?ということであって、
ワンネスで見た全体の体験だって、部分的なフォーカスから全体性に広がった感じはあったとしても、起こっては過ぎていく動のほうだけを見ていて、静を見失ってたんとちゃうやろうか?
みたいなね。

なんていうのかなー。
ワンネスの体験のことも、ウソってことじゃないですし、
そういったスピ系世界観もあるっちゃあるんですけど、

なんていうか、その中で、あるとか無いとか。
そんなことへのこだわりがあったんやねぇ。みたいなね。

ある人はこういった体験から悟りなり何なりを表現してたり、
またある人はたんなる「それ」を表現してたりするわけですが、

そんな話の中から、
これはどうなってるんだろう?どういうことなんだろう?とか言う疑問もでてきますが、
そんな疑問も、ほったらかしておったらよくて、そうしてると、何かをつかもうというエネルギーがあることに気づきますので、気づいちゃうとその気付きも消えていきますので、
理解することも何もすることって無いんやねー。
ってな風になってきまして、

で、ちょっとずつね。
自分なんてもんは、何者でもないんやねー。ってなっていきました。

そんな感じで、目の前の喧騒も、心の奥の静けさも同じようにそれそのものですやん。
当たり前やったんやん。
単に変なこだわりを持ってただけですやん!ってことに気づいたというか、

それでいて、変なこだわりがあっても全然いいやん!って感じにすこ~しづつ落ち着いてきたんです。

悟りもクソもあれへんがな。自我ちゃんが起こっておるならそれでいいですし、それが起こっとるだけでんがな。
すごい体験があったとしても、それが起こってるだけでんがな。

ってね。

起こることは淡々と起こってくれますし、それでもう個性は輝いてくれますしねー。

そうそう、自分はいてなくても、普通に個性はあるんですよね。
妙なコダワリみたいなもんは無いんですが、それでいてなーんにも失うものはなかったんですよね。

私はいない!とか、
悟りとは自身の死である!

みたいな言葉もあったりしますが、なんか全部失うのか?っていうよりは、最初っからなかったんやん。ってね。当たり前だけが残るんですね。
で、なーんも失わないんです。

何かを掴むことによって、何かが得られるんじゃなくて、
掴むことによって、見失っておっただけの話でね。

目の前にありとあらゆる掴んだものを積み重ねていって、向こう側が見えなくなってただけで、全然向う側が消えてるわけでもなく、なくなってるわけでもなく、
それでいて掴んだと思っていたもの。積み重ねていたと思っていたものも、ものとしてあるわけでもなかったんやんっていうね。

そんな当たり前だけが残るんです。

ずっと何かをつかもうとする動きがあっただけで、掴んだ何かにフォーカスした時だけ物語が展開されていき、さまざまな体験に対して枝葉をくわえていきますが、
フォーカスしないでいても単に体験を楽めば良いわけでこだわらなくても良くなったんですよね。


というわけで、長々と続いてしまっておりますが、
次回では、体験に翻弄されたどんくさい男のしくじり話のまとめに入っていきたいと思います。

また明日ー!

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ワンネス体験のパラドックスと誤解03

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おはようございます。タクさんです。
あらゆる体験が誤解を生んじゃう。
とりわけワンネスの体験とか空の体験というのは、
その体験から得た感覚が妙にリアルであるのと、つじつまがピタッとあっちゃうということでおこる誤解の話を書いています。

ちなみに、これはあくまでも僕個人の体験であって、一般論でもなければ、他の人もそういったことがあるということでもありません。
ただ、似た感じの人とか、スピや非二元の話で個々人が表現する微妙な差に、どうにも納得いかない。と思っている人の中にはもしかしたら、なるほど!って部分があるかもしれないということで書いてみたいと思っとる次第でございます。

昨日や一昨日の記事とか読んでない方がおられましたら、
先にそっちを読んでいただければ幸いでございます。

では、体験を通して得られる認識が、
妙に非二元とかスピ系の話とつじつまがあっちゃうっていう話の続きから書いてみたいと思います。

例えばね。
私はいないとか全てはそれである。
みたいな言葉もね。

つじつまが合うんですよね。

うんうん。だって全部が私であって、それでいて境界線がないからねー。
全てが私だよねー。
ってなりますし、
それでいて、とても表現しづらいので、「それ」って言ってるんだねー。
って理解しちゃいますし、

全ては幻想です。とかいう言葉もね。
うんうん。今まで現実だと思っていた世界って幻想だよねー。
本当は体も時間もなく、今があるだけ。
っていうのも、
この体験に合致するんですね。

それどころか、スピ系で言われてる話も、
つじつまが合うわけですからね。

そりゃー、勘違いするのも無理はないですわ~。
って思うわけなんですよ。

完全に体験と合致しますからね。
言葉の方がね。

あるがままのそれの言葉も、
体験で得たことを表現した言葉も、
同じになるんです。

それどころかね。
どんどんとピュアなインスピレーションになるって話を書いたじゃないですか。
ここをね、もっと探求していくと、最終的には完全な純粋に近づくんじゃないか?
なんて思ったわけなんですよね。

悟りとかは、単なるスタートでしかなくて、
ここから、更なるピュアなそれに近づく入り口なんじゃないかどうか?
なんて思ったわけなんです。

そして、本格的な悟りというのは、この状態を定着させていけばいいんじゃないだろうか?
なーんて思ったりもしたんですよねー。

じゃあ、この体験はどうすればまた起こるのか?
とか、自分が見たのはどの程度の次元?なのか??
とか、

もうそんなことばっかり気になったりしたんですよね。

で、自分よりももっと知ってそうな人に、どうすればこの次元をアップできるのか?
を教えて欲しくなるんですねー。

あとはね。
いわゆる現実。
お金とか社会のこととかそういうの。
それは幻想なんじゃーん。ってことでねー。
なんていうか興味がなくなっていったりもしたんです。

それは幻想であって、本当はあっちの世界である。
人は死なないし、感情や思いは判断のフィルターを通さなければ、
とっても心地の良いワクワクそのものである。

って感じですね。

はたまた、
大元の感情は身体とは別にあるのを見たもんですから、感情の動きを感じようとしたりもするんです。
でね、面白いことに、こういったピュアな感情が誰かのフィルターを通ると、
途端に濁ったりするんですね。

で、濁った感情が吐き出されると、それをほかの人がキャッチして、
さらに濁っていく。。。

そんな感覚を見たりもしてたんです。

自分自身も感情を濁らせることもあったし、他から来る濁った感情に飲み込まれたりする。
みたいな感覚もリアルに感じられたりするんですよね。

ほら、よく波動が低いだとか、高いだとか言うじゃないですか。

そんな感じの感覚です。

するとね。
自分自身で濁らせてしまう部分については、なんとか浄化しようとするんです。
でもって、他から来る濁った感情には飲み込まれないように工夫をする。

これをどうすれば上手く出来るんかいなー。みたいな探求も深まったりしてね。

ちょっとした浄化オタクになったりもしてたんですよね。

例えば伝授とかいってね。何かしらを伝授という行為の儀式みたいなもんがあったりもするんですけど、
「あ!これ、伝授とか言いながら、自分のエゴをこすりつけとるやん!」
みたいなもんが見えたりしてねー。

こんな風にして、感情というかエゴ的なものをこすりつけて、師匠と弟子ってできていくのねー。
みたいなね。
そういった影響下にある人が、なんか同じような霊的な体験をすると益々その師匠のおかげやったんや!みたいな思いを強くする。ってなこともあるんやねー。
てなことを観察してみたりもして、、、

これはねー。外の何かに依存すればするほど余計にハマるって感じですね。
もし、何かしらの方法で体験をしたとしてもすぐに忘れろって言われるのは理にかなっとるなー。なんて感想を抱いたりもしてました。

それでいて、元の感情は素晴らしくピュアそのものだということは知ってるので、
浄化オタクでありながら、色々あっても、それはそれで、オッケーやね~。っていうね。
「それでも全てはそれでオッケーなんですー。」
みたいな表現には同意も出来るってわけです。

ここでも辻褄が合っちゃうわけなんですよねー。

そんな感じで、感覚がもっともっと鋭くなったわー!
なんて、探求を突き詰めてみたりもしてたりしてたわけです。

でもね。
なんかしんどいんですよ。
特に現実はいつもどおりに現実としてあるわけなんで、それが幻想だとわかってりゃ、わかってるほどしんどいっていうかね。

この重たさはなんなんだろう?ってね。

ピュアな感覚の中にいる間はとってもいい感じなので、
この落差分だけしんどい感じなもんですから、益々、ある種の状態にい続けることにこだわる。
みたいなね。そんな感じになったりもしたんですねー。

でね、このあたりからなんか違う感覚の体験があったりしたんです。


というわけで、長くなったのでまだつづきますよー。
また明日ネーン。

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ワンネス体験のパラドックスと誤解02

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おはようございます。
タクさんです。
昨日の記事の続きを書いていきますね。
昨日の記事を読んでない方は、昨日の記事から読んでいただければ幸いでございますよ。

 

takuteto.hatenablog.com

 

ワンネス体験の話の続きです。
こういう体験中にね、
あかん!そろそろ戻らなきゃ!
みたいな思いも湧いてきたりするんです。

なんていうか意識が遠ざかる感覚があったりしたんですね。

思考や感情の原料みたいなやつをみてみたり、
うわっ!これがシンクロってことか!とか
感情とかが先にあって、それを脳がキャッチした後にレッテルを貼って脳の中で判断しとっただけなんやん!
とか、時間がない感覚とか、、
そういった発見を面白がっている間はいいんですけど、
徐々にその発見とかにも注意力をフォーカスできなくなってくると、
どんどん、いわゆる現実世界から離れていくって感じになっていってね。

なんていうか、海底からどんどん体が浮いてくる。
みたいな感じで、
そう言った、インスピレーションが渦巻いてる部分ももういいやーってなってくるんです。

すると、どんどん思考とかも薄れていくんですね。

海の底から体が浮いてくるといった感覚でしょうか?
しっかりと潜り続けないとそこにい続けられない。
みたいな感覚かもしれません。

いわゆる「現実」
僕らが普段生活しているという日常的な認識に近い感じの意識の場所では、
インスピレーションとか直感に、ある程度の具体性があるんですけど、
薄れていくと、具体性のないインスピレーションとかがあったりするんです。
言葉にならない感じのね。
純粋さが増してくるって感じです。妙な雑味が落ちていく感じに近いかもしれません。

そこで気づいたのは、
もしかしたら、高次の存在とか言われてるやつって、
こうやって、海底から身体が浮いてくる感じで、
現実の意識から遠いところにあるインスピレーション。
この存在を高次の存在とか言われてるんちゃうんか?
なんて思ったりしました。
雑味がなければ無いほど高次ってことなんかなー?なんてね。
思ったりもしたんですが、
そのあたりまで行くと、自分という存在も消えていくという感じになってきて、
妙な恐怖感というか、怖いわけじゃないけどここは違うわー?
って感じ?うまく言えませんが、そんな感じになってきて、
ふーって戻ってくる。

みたいなね。
なんかそんな体験を何度かしたんですけどね。

で、こういう体験を僕はワンネスの体験って勝手に呼んでて、
それ以外にも、

なーんもないけど、満ちてるっていう感覚に飲み込まれる体験とかもあったりしたんですけどね。
こっちの方は、
一瞥体験とか、空の体験って呼んでるわけです。
勝手にね。

で、ここまで書いて、やっと本題に入れそうになってきたんですけど、
うんざりしてませんか?

さて、本題なんですが、
こういう体験ってね。

つじつまが合うんです。
このつじつまが合うのが厄介やなー!って思ったりしてるんです。

どういうことかと言いますとね。

私はいない。
とか、
すべてはそれである。
とか、
すべては幻想だったんです。
とか、
一つであり全てなんです。
とか、
生と死っていうのもありません。
とか、
時間はありません
とか、
これは言葉を超えています。
とか、

そういう悟りや非二元で言われている話とつじつまが合うどころか、

よくスピ系で言われている。
シンクロニシティの話とか、
テレパシーの話とか、
高次元の話とか、
こういった話もぜーんぶつじつまが合っちゃうんですよ。

で、わかった気になっちゃうんですよね。
それどころか、悟り以上の何かがある!
みたいなことも思っちゃったりする場合もあったりするんです。

と、いうわけで、今日はこの辺までにしておきまして、
明日は、変に合致しちゃうつじつま。
そしてそこから起こる誤解なんかについて書いてみたいと思います。

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ワンネス体験のパラドックスと誤解01

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おはようございます。
タクさんです。

僕ね。
一瞥体験とか、ワンネス体験とか、空の体験とか、そういう体験って結構何回も起こったことがあるんですけどね。

で、こういう体験を何度も繰り返すうちに、
あ、これは単なる体験でしかない。
この体験すらも物語だったんだ!
って気づいた時に、

目の前のそのまんまがそれそのもので、それ以上でもそれ以下でもない。

って感じになって、もう探求の意義が失われたんです。

一瞥とかワンネスとか空の体験とか、体験に対しての定義は非常に曖昧なんですけど、
体験によって、ちょっとニュアンスが違ったんですよね。

今日はこの体験の中で、ワンネスについて書いてみたいと思います。

あ、これは体験自慢じゃないですよ。
体験って分離なんですよね。なので、体験の先にゴールが有るわけじゃないわけなんですけど、これはそんな体験に翻弄されたどんくさい男の失敗談です。

このワンネスの体験の中で、非常に厄介なパラドックスというか、誤解みたいなもんがあると思うんですよね。

こういうことを書くと、何かスピっぽくて変な誤解が生じるんじゃなかろうか?
何て思ったりもするので、ちょっと慎重になってたこともあるんですけどね。
ま、それはそれでもええかってことで、書いてみます。

とある体験の時には、
あー、身体って現象のようなもので、実際に自分は身体の中にはいなかったんだー!
って感じたことがあったり、

また別の体験では、
全部が私だったんだ!だからワンネスなんて言われてたりしたのかー!
って感じたことがあったり、

時間ってなくて、前世とか来世とか、そういうのも、全部、一緒にあるんやー!
なので、今が前世とか来世を作り出していて、現世も一緒でこれらは同時に同調して起こってるだけだったんだー!
てな直感があったりもしたわけなんですけどね。

ここで、ややこしいのは、よく言われてることのつじつまがぜーんぶ合ってしまうということなんです。

さっきも書きましたが、こういった体験は、起こっては消えていくことですので、
物語のようなものなんですよね。

つまり、「それ」とか「解放」とか「探求の終わり」とかとは全然関係がないわけなんですけど、

ややこしいことに、つじつまは合ってしまうんです。

例えばね、
その時までは、ぼくは、
感情とかって、体の中の脳が生み出しているって思ってたんですよ。

でもね、とある体験では、
そうじゃなくて、感情が先立ってあって、それを脳が拾い上げて解釈をしているっことやったんやー!
って気づいたことがあったんですね。

つまり、自分って感覚は、身体や脳に依存しているって思ってたんですけど、そうじゃなくて、
身体や脳がなくても、自分って感覚は若干境界は薄れているような感じはありつつも、
ちゃんと自分っていう感覚は残っている感じなんですよね。

考えてみれば、それもそうで、人の体って、半年もすれば中身はまるっきり変わってしまうわけなんですが、
変わらない自分の感覚ってありますよねぇ?

子供の頃と大人の時って、体も脳も物質的には全然別のはずなのに、
自分って感覚はずっとあるじゃないですか?

それって、身体や脳に依存せず、自分があるってことなんじゃーん!
っていう発見みたいなものがあったんですよね。

つまりね。

体がなくなっても、死なない!
ってことを発見したんです。

逆に、身体の影響を離れる自由さがあるんですね。

よく、臨死体験なんかをしてる人とかで、身体を離れても自分がいる体験をしてる人とか、体では無い霊体の話とかがスピ系、オカルト系であったりして、
妙な話の一致があったりすることがあるんですけど、
そりゃそーやん。

だって、身体や脳の中に自分がいるわけじゃないんやもん!

って合点がいったって感じです。

そうか、人は死なないんだ!
これ、聞いたことがあるけど、ほんまなんやん!

ってねー。
その時は感じたわけです。

変性意識みたいなもんに入るといいますか、体のフィルターを通さないでいるといいますか、なんかそんなワンネス状態にある時って、
感情とか、思考的なものもその中でガンガンキャッチできるわけなんですけど、
それも身体で生きている時と大体一緒のように感じることができるんですが、
身体とか判断を通さない感じでキャッチできるので、
もっと直感的なんですよ。

だから、「私はあなたで、あなたは私」とか、そういう表現がワンネスと言われてたりしましたが、
感情や直感、インスピレーションのようなものの方が、先にある。
つまり川上にあって、それを脳がキャッチして判断して、より具体的な思考として解釈して、
もっと判断とかが加わった思考として再構成されて、
そうやって再構成されたものを自分の思考として感じていた。

っていうね。
そういうことだったんやん!
全部が自分なんやん、それを判断で分離というものを作ってただけなんてねー。
そんな分離ってめっちゃ不自由やん!

ってね。
そういう風に感じたりして、
巷で言われてるテレパシーとか、シンクロニシティとか、
そういうものって、そういう脳に取り込まれたあとの判断による再構成の過程をうまくすり抜けた時、
つまり、体や脳の判断のフィルターを通さずにダイレクトに感情をキャッチできた時に感じる
純粋に近いインスピレーションのことやったんやー!

とかね。
そういうことを発見したりね。

はたまた、そういうのが共有されてるってことは、個別の私なんてのはいなくて、
それでいて、人は死ななくて、全てが一つで、
それが全部だから、、、、

あー!悟りの話で言われてたのと全く一緒やーー!
ってのも発見するわけなんですよね。

話についてこれてます??
ちょっとぶっ飛んでるように聞こえるかもしれませんけど、
もうちょっと我慢してくださいね。

誤解を与えたらいけないから、言っておきますけど、これも物語でしかない話ですからね。

さて、釘を刺したところで続けます。
といいたいところですが、長くなったので、続きは明日になります。
ごめんなさい〜。

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因果は錯覚

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因果のルールってねー。
要は錯覚のようなもんなんですよね。

なので、今のこの状況の原因は自分にあるのじゃなかろうか?
何が悪かったのか?

とかねー。

そんなん無意味ですので考えなくても良いんですよね。

罪悪感ってのもね、起こるときは起こりますけど、気にすることって無いんです。
そりゃね、誰かに迷惑かけちゃったってのならちゃんと謝るとかそういうのは当たり前の話として、気にすることはないんです。

頭の中のおしゃべりでは常に、
ああすればこうなる。
こうなればああなる。

みたいなシミュレーションが大好きだったりするんですけどねー。

それもイメージでしかありませんのでね。

でもねー。そういう思いが起こってくるんですー。
って思うかもしれませんけどね。

そういう思考が起こるのは当たり前ですからね。

それが思考って言うもんですから。
だからそういった思考が湧いてくるのは全然オッケーなんです。

ここで、そういった思考を締め出さなければならない!
ということじゃないんです。

思考は起こりますが、そこにフォーカスされている間だけ、
その思考は居座ります。

そういったシステムを見てみることによって、
思考ちゃんは、居座るチカラを失います。

見られることによってリアリティが剥がれ落ちるんですよね。

なんや!見ることが出来るんやん。
ってことは対象やん!
じゃあ自分や無いやん!

てなもんでね。

ありゃ、見られた?
ってことで、
居座る意義を失うんですよね。

ホントのところは、対象でもなくそれがただ起こっておっただけでね~。
その後もあらゆることが、起こっては消えていくわけなんです。

たまーに居座ることもあるかもしれません。

それもまたオツなものとしてね。
味わってあげるのもいいと思います。

ただ、その思考は単なるイメージであって、それ以上でもそれ以下でもありませんのでね。
それがなにか重大なパワーを持ってるわけでももちろんありません。

なのでね。
まだ思考が起こってくる。
とかいったことに煩うこともないんですよねん。

なーんもないなかで、仮想の中心点を設けてるときだけ、
その中心点と、そこから離れた別の何処か?といった仮定の設定が生まれます。

そういうときは落ち着いてー、
「その中心点ってなんやねん!」
って突っ込んであげて下さい。

身体とか自分とかそんな思いが出てくるかもしれませんが、
「どっこにあるねんっ!」
って突っ込んであげたら良いと思います。

突っ込むのも自分なら、突っ込まれるのも自分。
突っ込まれて言い訳を考えるのも自分っていうねー。

まさに一人相撲をやっとることに笑えてくるかもしれませんよ。

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自分をより良くするためだった信念がいつしか自分の主人になっちゃう?

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どんなことでも楽しいーにやればいいと思ってます。
でも何か特定なことを信じたらうまくいくとか、そういうことじゃなくて信じるのなら自分の奥にある気づきやと思うんです。
自分なんておらんのでしょ?って事も言葉を信じるんやなくて確かめて見なけりゃ始まりませんしね。

私はいないとか、自分がいないってのも結果論みたいなもんでしてね。
信じたりするもんでもないと思うんです。
自分がいないと言う話を信じれば信じるほど、
「私はいない」っていう信念が強化されたりもするわけでねー。
で、ついには「私はいない」私をなんとか自分のものにしようとしちゃったりね。


そんな妙な信念が出来たりするんです。

社会のルールでも、子供の頃に親に言われたことでも
ああすべき。
こうすべき。
みたいなルールが、いつしか信念のようなもんになったりするんですよね。

それならわかりやすいんですが、
自分が取り組んできた方法。
その方法がスピリチュアル的なものであったり、修行的なものであったり、
なんでも良いんですけどね。

そういったものも、たのしーくやってるつもりが、いつしか信念っぽいものに変わっちゃったりすることもあったりするんですよね。

自分の気づきの方じゃなくて、なんていうか自分の外に何かしらの拠り所を得ようとしてみたり、自分で組み立てた方法でも考え方でも、それへのコダワリが強くなってきたりして、そうやって信じたもんは、信念になってきて、そうなるとその信念は守らなきゃならんものになっていくんですよねー。
その信念が強くなればなるほど、他の人に同意を得られなければならんことになるんですね。


そうなってくると、いつしか道具だった信念が、自分の主人になってしまう。みたいなことになってきたりするんです。

例えばね。
自分がこう思ってることとはまるっきり逆のことを思ってる人がいるとしてね。
そんな時に、ピクっと来ることありません?

そのピクってのについてくる心の重さというかザワツキみたいなもんがが、大きれば大きいほど、何かしらの信念に対するコダワリが強いってことがあると思うんですよね。

自分のやってる方法が一番いいはずだ!って感じのものだったり、
むむむっ!こいつはエセ覚者なのではなかろうか?みたいな思いだったり、
〇〇は至高のものだ!って考えだったり、
スピリチュアルはダメだ!って思いだったり、

色々とあると思うんですけどね。
どんな思いも主義主張も起こってくるものなので、それはそれでぜーんぜん良いんですし、
どんなことでも好き嫌いがあるのも全然いいんですし、
それを主張するのは良いんですけど、
それへのコダワリみたいなものが強けりゃ強いほど、なんていうか心のなかでグワッって怒りのようなものが沸き起こってくる。なんか違和感が襲ってくる!
みたいなことがあったりするとね。

あ、なんかわし、妙なコダワリを持っとるのかもしれん。
てな具合で、気づいて見るチャンスかもしれません。

こういうときに感じる違和感って危機感のようなものでねー。
なんていうか、「自分が正しい!」って思いが損なわれそうな時に出てきたりするんですよね。

自我ちゃんってのは、元はといえば、自分と見なしている身体を守りたがる本能のようなもんやと思うんですけどね。
そこへの危機があると対処しようとするんですよ。

それはそれで、必要なことですのでね。

何ていうか、修行で自我を滅却しよう!なんてのはおかしな話でしてね。

そんなもん、滅却してしもたら、赤信号でも「恐怖は幻想なりー!」とか言って、ガンガン進んでいってしまうやーん。
てなことにね。
まあ、なる人はおらんとは思いますけど、そういうことになってしまいますのでね。

自我ちゃんはいても良いんです。
逆に変に抑え込もうとすると、そこに摩擦が起きるわけでしてねー。

抑え込まずに、可愛がってあげて、表現させてあげたら良いんですよね。

でね、逆説的になるんですけど、
自我ちゃん。どうぞどうぞ、かわいがってあげるから、表現したいだけしたらええんやでー。
てな具合に、自我ちゃんを開放してあげる。
って感じで見てあげるとね。

妙なコダワリとかも、誰にさらされるわけでもなく、自分にさらされるみたいなことになって、
なんていうか、許されていくんですよね。

許されていくとねー。
あ、自我ちゃんを強化して身を守らなくても大丈夫なんやん!
って、逆に自我ちゃんを信用することができるようになったりするんですよね。

信じてなかったから、身を守ろう、鎧を身につけようってな感じになってたっていうねー。

そうすると、人の同意とか、認められるような自分になるとかね、
そんなんもどうでも良くなってくるんですよね。

もちろん、自分がどうでも良くなるわけじゃなく、心が変わるってことじゃなくて、
自分の影響下から何かが開放されてくるって感じなんですけどね。

そんななかで、かちんと来たり、好き嫌いが起こるわけですが、
それはさらっと起こっては消えていくわけです。

そういったあらゆるものに対しての気付きだけがあります。

そんな気付きに、単に溶け込んどったらね、あとは勝手に起こってくれるんですよね。

あとは、楽しく修行したけりゃそれも良し。
楽しく我慢したら良いですし、楽しく成長したら良いですし、
楽しくなーんにもしなけりゃそれでも良いんです。

何かをするのに目的とかの原動力に頼らなくても良かったんです。
原動力ですら無い、単なる目的が起こってくることはあってもね。

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怖かっただけかいっ!

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前にもねー書いたかもしれませんけど、どうしても自我ちゃんは、どうにも悟りとかいうものを難しいものと考えたりするんですよねー。
誰かが悟るとか無いんですよ。
なのでね。悟りなんて無いんです。
この辺は耳タコかもしれませんけどね。

みたまんま、目の前のそのまんまがもうそれそのものです。
探してたそれです。
目の前にあるこのペットボトルの蓋。
これがもう「それそのもの」なんです。

え〜!
その蓋になんも至福感とか愛とか感じないんですけどー。
わけがわかんなーい。
って思うかもしれませんけどね。

それは多分、これは取るに足りないペットボトルの蓋であって、
自分が探求してることは、すんごいことであり、こんな取るに足りないもののはずが無い。っていうね。そんな観念があるのかもしれません。
もっとそれそのものは壮大なものや無いとあかんっ!
みたいなね。


このフタはペットボトルのふたや!
すなわちとるに足らないものなんや!

っていうね。
そういう観念があるっていうだけでね。

ほんまはフタでもなく、なんていうかフタっぽい何かが見えてる。
イメージの中でそう見えてるっていうこの、「気づき」みたいなもんがあるだけなんですよね。

今読んでいただいているこの文字も、シミのようなもんです。
画面だから、単なる黒い点ですよね。

そして、この黒い点のあつまりに気づいているわけですよね。
で、この点の組み合わせを文字と見なし、その文字から来るものを一つの意味と見なし、
そして、その意味とは何なのか?と考えを巡らせているわけでね。

ま、その一連の流れも、ただ起こってるというわけなんですねー。

そういうわけですので、いったんこの「気づき」にね。
在ってみればいいと思うんですよ。

するとね。
なんていうか、この「気づき」しかないわけですので、在ってみるといった行為者も「気づき」に溶け込むんですよね。

気づきをつかむんじゃなくて、そのまんまにしてみるって感じですかねー。

行為者が溶け込むという書き方をしましたけど、最初っから行為者がおらんことが、単に明らかになったってだけなんですけどね。

そうやって、知らず知らずのうちに意味を付け加えてたもんが
明らかになっていきますとね。

なんやねん!
怖かっただけかいっ!

っていうねー。
そんなことが明らかになってきたりするかもしれません。

誰に明らかになるねん!っていうかね。

誰にも明らかにならないんですけど、これも単にあると思ってたもんが、最初っからなかったということだけなんですけどね。

そうやって聞きますと、有ると無い!っていう二元性で想像しちゃいがちだったりもすると思うんですけど、もうこれは書きようがないからそう書いてるっていう書き手の都合でしか無いわけでしてね。

無いのであれば、無いんだ!
っていうのも、一つの信念になっちゃいがちなんですけどね。

そうやって、有るとか無いとかをつかもうとする動きがね。
色々と物語を作るわけでして、
だからといって物語を抑え込むという話でもなくてですね。

すぐにつかもうとするよねー。
っていうことが単に見抜かれるってことなんですねー。

好き嫌いも、罪悪感とかもそりゃー普通に出てくるんですけど、
そこに妙な重みがないんですね。
深刻さみたいなもんです。

単に在ってみると、その深刻さのウソさが明らかになってくるって感じなんです。
明らかにするんじゃなくてね。

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